イタリアその1―ローマ(つづき)。

2000年前の街と同居しながら暮らすというのは観光で訪れるにはいいものの、実際暮らすとなると恐らく相当の不便を伴うものに違いない。例えば道路。ここは基本的に石畳の道が多い。ローマ時代からそのままの道を使っているところもあるようだ。「ドミネ、クォ・ウァディス?」(”Domine, quo vadis?”:主よ、どこへ行かれるのですか?)という言葉で知られる、ペトロがイエスに再び出会ったと言われる場所。今もその当時のままの場所が残っているのだが、当然車で通るには不便。スピードを出すと振動がひどいので大変な上雨が降った後はひどく滑るらしい。また、ローマの街は当時の城壁に囲まれた中にあるのだが、当然、当時は今のように大量の観光客が車で街を出入りすることなど考えられてはいない。門の出入り口は決して広いものばかりではなく、車の渋滞の原因にもなっているらしい。今は市内の車の出入りを制限するため、監視カメラを各所に設置したうえ、市内の中心部には大部分の一般車は入れないようになっているようだ。ガイドをしてくれた人によると、なんにも知らない人が思い切り自由に市内を車で乗り回したのち、8年後くらいあとになって大量の罰金が請求されたという。8年後というのがいかにものんびりしたイタリアらしい。フランスもすごいがさらに上を行くようだ。
カタコンベ。郊外にある初期キリスト教徒の地下の墓地。浅い知識として知っていることと実際に観るのとではまた別のようだ。どこまでもつづく狭い地下通路。両側には遺体が納められていたというくぼみが並んでいる。本来は綺麗にふたがされていたらしいが盗掘目的で掘り起こされたものらしい。複雑に入り組んだ通路、明かりがなければ全く何も見えなかったはずだ。ここで暮らすということはなかったらしいが迫害をさけてここに集まり礼拝をする場所もあったようで、通路には呼吸の為の空気穴のようなものも開けられている。あまりに複雑で広大なため、たとえローマの兵士たちが入ってきても中で迷い込み、再び出ることができなくなったという。当時のキリスト教徒たちの痛々しいまでもの切実さが伝わってくる。切実な信仰は人間にここまでのものを作らせるものなのか。

午前中の残り時間にスペイン階段やトレビの泉など、観光名所を眺め、午後にバチカンに向かう。(余談だが、スペイン階段でジェラートを食べる人達があまりにも多すぎるため、去年になってそこでジェラートを食べるのが禁止されてしまったという。)バチカン。あまりにも人が多すぎて正直言ってじっくりと作品を鑑賞できるような状態ではなかった。暑い中、子供を抱いて人ごみの中を登ったり降りたり。今度来るときにはせめてバカンスシーズンだけは外したいものだ。シスチーナ礼拝堂はまるで巨大な満員電車の中のよう。ざわつく堂内に時折静粛を促す「シーッ!」という係の声。実はその音が一番目立つ。20年前と変わらぬ風景だ。以前来た時にはまだ修復のさなかで半ば修復が終わり、半ば修復前。最後の審判はまだ手付かずだった。修復前と修復後の色彩の違いに目を見張った記憶がある。今回は完全に修復が終わった姿。最後の審判の背景の青の鮮やかさが目にしみるようだ。これだけの仕事をたった一人の人間がやりとげたという事実に今さらながら驚きを覚える。

夕方、ナボナ広場のあたりをぶらぶら歩く。このあたりは夕暮れから夜にかけてがにぎわうらしい。まだ少し早いがところどころで演奏をしたり絵を売ったりする人々の姿が見られる。子供達がいるので暗くなるまで待っているわけにもいかないが(こちらで日が暮れるのは9時過ぎ)腹も減ったしのどもカラカラ。ここで食事をしながらしばらく待ってみようということにした。広場に面した店の外の椅子に座って食事を注文する。ちょっと高くついた。細い路地を入って行けばもっと安い店もいくつかあるのだが、これは場所代だな…と思ってあきらめる。ゆっくり食べていると次第に客が増え、外もにぎやかになってくる。急にざわついてくるので何かと思って見ると、たぶん今結婚式を終えたばかりの新婚さんがドレスを着たまま馬車に乗って広場を横切るところだった。一斉に周りの関係ない人々が拍手やら掛け声やらで大騒ぎになる。さすがイタリア人。なんでもお祭りに仕立てあげてしまう。
ホテルまではそこから2~30分歩いて帰った。テルミニ駅地下のスーパーで明日の朝、食べるものを買う。翌日にはフィレンツェだ。

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