画家、末冨さんのこと。

学生の頃、いくつかの学年に一人、学年をこえて名前を知られる有名人がいた。末冨さんはそんな、いわば「伝説の人物」の一人だった。2学年上の先輩。彼女を有名にしているのはもちろんその作品の質の高さによるのだが、それに加え、教授をも恐れぬ歯に絹を着せぬ物言いなど、その人物像からして伝説化されるに充分な女性だった。私が彼女を最初に知ったのはそんな人物像を聞かされる前。確か芸術祭でたまたま作品を目にしたときのことだ。その頃ものを見て描くこと…しっかりとした写実が主流だったムサビの中にあってその鮮やかな色彩と自由な線がひときわ強い印象を放っていた作品に、「こんな人がいたんだ。」と驚いたのがその初めだった。絵描きの中にはたまに、イメージが勝手に内側からあふれ出てくるタイプの人物がいる。どういう訳か、それは女性の方に多いように思うが、彼女はまさにそんなタイプの絵描きだった。その後、どういういきさつだったかはもう忘れたが面識も生まれ、その”豪快な?”人物像も知るようになる。大学院の1年になったころだったろうか、もう卒業したはずの彼女が突然アトリエに入ってきて(その頃は1つのアトリエを6人くらいで使っていた。)部屋のソファーにどんと座り、「あんたたち卒業したらこんなのんきに一日中絵なんか描いてられないんだよ!」といきなり説教をかましだす。いったい何でおれは今こんなところで怒られてるんだろう…。それが一番印象に残っている”末冨体験”だった。後に末冨さん本人から聞いたところによると、「今の大学院生たちはたるんでいるから、モチベーションのひくい学生たちにちょっとカツを入れてやってくれ。」と当時の教授にたのまれてやってきたとのこと。ただ恐ろしいと思った出来事にはそんな裏事情があったらしいのだが…。

そんな末冨”先輩”が、今パリにいる。そして彼女は今視力を失っている。視力を失ってなお彼女は絵描きであり続けている。
先日突然彼女の旦那さんからメールが入った。「綾子はパリにいるので電話してほしいそうです。」との内容だった。同じ文化庁の研修員、横井山さんから末冨さんのアトリエがすぐ近くにあって今彼女のアトリエを借りて描いているという話は聞いていた。「またなんか怒られんのかな?」恐る恐る電話をかけてみると20年前と変わらぬ威勢のいい声。帰国する前に会おうよ。という。そんなわけで今日アトリエを訪れたのだ。アトリエには一度横井山さんを訪ねた際に行っていた。しかしその時は連れられるままに行ったので今回は地図を片手に探す。幸いちょうどアパルトマンの前で横井山さん夫妻に出くわし、一緒に入った。6階の大きな窓からパリの街並みが遠くまで見渡せる眺めのいいアトリエ。ドアを開けて最初に迎え入れてくれたのは中学生の娘さん。そして大きな盲導犬だった。そして奥から出てきた懐かしい顔。20年も経つと人によってはすっかり老けこんでしまっているものだが、末冨さんは昔の印象のままだった。

末冨さんが失明したということは誰からともなく聞いていた。しかし卒業後、どうしていたかについて、詳しいことはほとんど知らなかった。ムサビのパリ賞でパリに半年滞在したのをきっかけにフランス政府給付留学生として再来仏、そのままこちらでの作家活動を続けてきたのだという。結婚後もこちらに残り視力が衰える中、2才まで子供を一人で育てたらしい。その後、帰国。完全に視力を失い一時は制作も諦めかけたと言うが、或るきっかけからひもを使って手で確かめながら描く技法にたどり着き、再び作家活動を再開した。今は盲導犬と共に日本とパリを行ったり来たりしながら制作を続けている。壁には一面に最近の作品が掛けられていた。紐で描くドローイング。学生のころに見たその独特の線は今、別の形でここに再び現れている。その上に着彩をすることである種の版画のような効果を狙っているという。今までは白黒の作品ばかりだったが最近は色にも挑戦していると話す。夏休みでパリに来ている娘さんは時に母親の目の代りも果たしてくれているらしい。

…2時間ほど学生時代の思い出話に花を咲かせた。
実は失明することは高校生の時にすでに医者から宣告されていたという。そのことを知って大学院の時の”説教”を思い出すとやっとその意味がわかる気がする。彼女は初めから時間的なリミットを背負いながらがむしゃらに絵を描き続けてきたのだ。そして今そのリミットさえ乗り越えてその先に進み続けている。
画家末富は、どうやらまだまだ”伝説”を作り続けるつもりらしい。

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